タイの歴史2 トンブリー王朝からシャムへ!! 現在のタイ王国の成立とは!?

トンブリー王朝 は、タイの歴史を語る上で最も重要な王朝になります。この時代にタイの中心がアユタヤから現在のバンコクに移りました。

また、国号がシャム王国からタイ王国に変わる大きな転換期です。ということで、今回は、トンブリー王朝からタイ王国の成立について、記事にしたいと思います。

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タイの歴史2 トンブリー王朝からシャム王国へ!! 現在のタイ王国の成り立ちとは!?

トンブリー王朝の成立!!

 トンブリー王朝

1762年に清緬戦争が勃発、1767年隣国コンバウン王朝の侵攻により、首都アユタヤが壊滅され、アユタヤ王朝は滅亡してしまいました。

その後、清緬戦争でコンバウン王朝がタイ領から撤退したことで、圧力が弱くなったタイミングに乗じたのが、アユタヤの将軍タークシンでした。

タークシン将軍は、新首都トンブリーを拠点に、トンブリー王朝として再統合することに成功し、1769年に王となります。

しかし、タークシン王も長きに渡る戦いの日々で、精神を病み、プラヤー・サンのクーデターによって退位させられました。

ついには、カンボジア遠征から戻ったチャクリー将軍に処刑されてしまいます。ちなみにこのチャクリー将軍が、後のラーマ1世、チャクリー王朝の最初の王です。

そして、ラーマ1世は、トンブリーからチャオプラヤー川対岸に新首都バンコクを建設、現在まで続くラッタナコーシン朝、チャクリー王朝(バンコク王朝)が始まります。

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シャム王国とチュラロンコーン大王!!

 トンブリー王朝

ちなみに、当時のタイの正式な国号はシャムです。ラッタナコーシン朝シャムでは、ラーマ1世の統治の下、国内の整備に力を入れることになります。

また、国際情勢の変化に伴い、次第にヨーロッパ諸国の植民地主義の脅威に晒されました。そんな中、積極的に外国人を受け入れ、近代化を図っていきます。

ラーマ4世の時代には、イギリスとの通商条約であるボーリング条約を締結、さらに同じく不平等条約を欧米諸国と結び、自由貿易を受け入れました。

しかし、ラーマ4世の息子、タイ王朝三大王の一人、チュラロンコーン大王(ラーマ5世)は、こうした背景の中でも、西欧勢力との間に堅固な国交を確立します。

そして、中央集権化とさらなる近代化により、近代国家としての基礎を作り、絶対君主制を確立するに至りました。まさに現在のタイの礎が構築されたのがこの時代です。

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ラーマ5世(チュラロンコーン大王)とは!?

 トンブリー王朝

タイ三大王の一人で、チャクリー王朝、第5代シャム国王です。積極的に西欧の近代国家の制度を導入、チャクリー改革などを通して、タイの近代化に努めました。

また、西欧の植民地化の時代でしたが、英仏の対立を利用し、植民地化を免れ、独立を維持します。これが現代に至るまで敬愛される理由です。

公然と行われていた奴隷売買を廃止、タイ国外においても小説「アンナと王様(Anna and the King of Siam)」の影響で、奴隷解放を行った名君として知られています。

1999年には、アメリカのタイム誌で「今世紀最も影響力のあったアジアの20人」の一人にタイ人から唯一選出されました。

タイ最大で最高学府、チュラロンコーン大学に名前が残り、日本の皇室とタイの王室の良好な関係にもラーマ5世と明治天皇の同時期の在位が関係していると言われています。

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なぜタイは西欧の植民地化を免れたのか!?

トンブリー王朝

ラーマ4世、ラーマ5世の時代には、東南アジアにおける西欧列強の植民地化がさらに加速することになります。

シャム王国(当時のタイ)もビルマを併合したイギリス、そして、仏領インドシナを獲得したフランスによって、激しい領土の割譲を迫られました。

この状況下で、ラーマ5世もやむなくタイ領ラオスのメコン東岸、ラオス全域の割譲を受け入れます。そして、フランスの侵攻を横目にさらにイギリスも侵攻を開始しました。

ついに英仏両国は、インドシナから雲南への別々のルートを巡って衝突する「雲南問題」に直面することとなります。

しかし、両国がシャムとメコン川上流域に関する英仏宣言を発表、戦争を回避したことで、副次的産物として、タイが英仏両国の緩衝地帯として残されました。

これが植民地化を免れ、タイ王国が東南アジアで唯一植民地の危機を脱し、独立を維持することができた理由です。

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国号をシャムからタイへ!!

第一次世界大戦で戦勝国となったラッタナコーシン朝シャムは、国際的には地位をあげることとなりましたが、有識者や一部の軍部により、絶対君主制に反対する動きが始まります。

そして、1929年、ラーマ7世の時代に始まった世界恐慌をきっかけにタイの負債が急激に悪化、絶対君主制に反対する運動が起こりました。

この時代背景を基に、軍人のピブンや官僚のプリーディーらが人民党を結成、ついにクーデター(立憲革命)を起こします。

結果、タイの政府を絶対君主制から立憲君主制へと移行、立憲国家となったシャムは、ピブン政権の下、近代的主権国家の樹立を目指しました。

そこで、タイ人の国家であるという自覚を高めるため、1939年に国号をシャムからタイに変更、現在のタイはこうして生まれたのです。

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さいごに

タイと日本は、西欧の圧力から植民地化の危機に晒されながらも、近代化、独立を維持しました。しかし、その後の日本は次第に軍国主義に傾いていくことになります。

ここから両国の歴史の歩みは大きく異なっていきました。歴史とは本当に因果なものですが、次回は第二次世界大戦と現代史にフォーカルしていこうと思います。

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