チャオプラヤー川 は、古くからタイの物流や交通を支える重要な役割を果たしてきました。ちなみに、チャオプラヤーとは、タイ語で最高位を意味しています。
しかし、近年まではタイ語で川を意味するメナム川と呼ばれていました。ということで、今回は、チャオプラヤー川の意味とその歴史について、記事にしたいと思います。
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チャオプラヤー川 物流と交通の要所!!タイを縦断する最高位の川の歴史と意味は!?
この記事の目次
タイを縦断するチャオプラヤー川とは!?
チャオプラヤー川(Chao Phraya)は、バンコクを中心に流れるタイを代表する河川です。タイ国内だけを流れる川として最も長く、水源は北部の山地にあります。
ちなみに上流は東から西にナーン、ヨム、ワン、ピンという4つの支流に分かれ、最終的にはナーン川とピン川が合流、チャオプラヤー川となるのです。
また、この地点はバンコクから北に約250キロに位置するナコーンサワン県、このナコーンサワンから河口までは、約370キロもあります。
そして、北部の水源から約1,200キロ、この中央湿地帯が世界でも有数の稲作地帯に発展したチャオプラヤーデルタ(三角州)です。
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タイ人の生活を支えるチャオプラヤー川の支流と運河!!
バンコクを中心とする中央湿地帯では、農業用や運搬用にいくつもの運河が掘られ、この運河がバンコクの交通を支えることになりました。
河岸からチャオプラヤー川を観察していると、数多くの船が往来しています。ダグボートに引かれた船や小型のタンカーなども頻繁に見かけるでしょう。
このようにチャオプラヤー川は、貨物輸送面でも重要な役割を担い、BTSサパーンタクシン駅からノンタブリーの間には定期船も就航しています。
また、支流や運河なども合わせて、現在でも1日3万人以上が利用する重要な交通手段として、電車やバスと同様にバンコクの庶民を支える足として機能しているのです。
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チャオプラヤー川の意味とは!?
ちなみにチャオプラヤーとは、タイ語で最高位という意味です。チャオは、王の意味にも使われる高貴な人物を指す言葉で、プラヤーは位を表す言葉になります。
よって、この2つを合わせて最高位となるのです。タイ国内を流れる川で最も重要な川という意味を込めて、この名前が付けられたと言われています。
しかし、アユタヤ王朝時代から近年まではメナームと呼ばれていました。タイ語でメナームとは、母なる水という意味も持ちますが、一般的には川を意味しています。
確かに日本の地理の教科書にもメナム川と表記されていました。このように外国人は、現在のチャオプラヤー川をメナム川と呼んでいたのです。
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なぜチャオプラヤー川と呼ばれるようになったのか!?
近年まで外国人にメナム川と呼ばれていましたが、これは日本語訳では「川、川」という意味で、川という意味の単語を固有名詞として使っていたのです。
よって、固有名詞としての川の名前をつける必要があり、最高位の川を意味するチャオプラヤーと名付けたと言われています。
また、これには諸説あり、古くからタイ人は「メナーム・チャオプラヤー」と読んでいましたが、タイ語の文法では、被修飾語が修飾語の前に来ます。
これを「メナム」が川の名前であると外国人が勘違いしたことによって、メナム川と呼ばれていたという説も有力のようです。
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チャオプラヤー川とラッタナコーシン島とは!?
チャオプラヤー川の河口から50キロほど遡った内陸に位置するバンコクにラッタナコーシンという島があるのを知っていますか!?
ラッタナコーシンとは、ワットプラケーオにあるエメラルド仏のことで「インドラ神の宝石」を意味しています。現在の王朝がラッタナコーシン朝と呼ばれるのも由来は同じです。
ちなみにこのラッタナコーシン島は、ヤワラート通りからチャックペット通りに入る直前、ロープクルン運河とチャオプラヤー川に囲まれた一帯を指します。
ここはバンコクが最初に作られた時の都の範囲で、チャオプラヤー川とロープクルン運河で囲まれた内側を島に例えたのです。
また、トンブリーに都が作られた時には、クームアンドゥーム運河が作られました。そして、都がバンコクに移った後に、外側を取り囲むようにロープクルン運河が作られます。
さらにラーマ4世の時代には、パドゥンクルンカセーム運河が作られ、ここに3つの環濠とチャオプラヤー川に囲まれた旧市街地が構築されました。
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要塞都市ラッタナコーシン島とは!?
ラッタナコーシン島が「島」と呼ばれるようになったのは、チャオプラヤー川とロープクルン運河に沿って、城壁が築かれたことが理由です。
元来タイ族の都は、伝統的に外敵の侵入を防ぐため、城壁を築いてその中に街を作ります。よって、トンブリーやバンコクにも同じように城壁が築かれました。
ちなみにこの城壁は、高さ約3.6メートル、幅2.7メートル、長さは約6.6キロで、当時には14カ所もの砦が設けられたようです。
こうして水路と城壁で取り囲むことによって、バンコクはアユタヤを滅ぼしたビルマ軍が再度攻め込んでくるのに備えたと言われています。
ところが19世紀に入って、ビルマがイギリスと対立を始めたことにより、外敵を警戒する必要がなくなったため、往来に不便な城壁に多数の城門を作ることになりました。
また、ラーマ5世の時代には、道路整備のためにバンコクを取り囲んでいた城壁や砦そのものも撤去され、徐々にその姿を消していきます。
そして、現在北端のプラスメーン砦と東のマハカーン砦、付近のごく一部の城壁が残っているだけで、かつてバンコクが城壁に囲まれていた事実は、ほとんど知られていません。
それでもラッタナコーシン島(コ・ラッタナコーシン)という語は残り、チャオプラヤー川を代表とする水路と城壁で囲まれた要塞都市バンコクの歴史を今に伝えているのです。
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さいごに
チャオプラヤー川は、古くは外敵を防ぐため、人々の生活支える食糧生産、さらには物流、交通手段として、色々な意味で重要な役割を果たして来ました。
ちなみにチャオプラヤー川を船で巡るツアーは、外国人旅行者にも人気のアクティビティです。私も次回の出張では、短い船旅を楽しんでみたいと思っています。
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