山田長政 は、17世紀にシャム王国で活躍した日本人です。約400年も昔に東南アジア、タイに移住し、歴史に名を刻んだ人物になります。
また、その名は現在のタイでも知られているほど有名です。ということで、今回は、日本の歴史的偉人、山田長政について、記事にしたいと思います。
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この記事の目次
17世紀にタイに移住した山田長政!!
歴史に詳しい人は知っていると思います。また、歴史の授業で学んだ人も多いでしょう。 現在では海外に移住することも、ある意味では普通になりました。
しかし、江戸時代の初頭、飛行機の無い時代に、長い時間をかけ、船で海外に行くことは決して簡単ではないでしょう。
しかも現代のような新鋭の船ではなく、あくまで400年前に作られた木造船です。よって、海外に出かけること自体が大きなチャレンジだったに違いありません。
そんな時代に東南アジアのシャム(現在のタイ)に移住し、傭兵として活躍した偉人、山田長政とは一体どのような人物だったのでしょうか!?
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山田長政の略歴とは!?
山田長政は、1590年に駿河国(現在の静岡県)に生まれます。当時の長政は、沼津藩主、大久保忠佐に仕え、六尺(駕籠かき)をしていました。
ちなみに、駕籠かきとはかごに人を乗せて運ぶ仕事で、決して身分の高い仕事ではありません。また、初めは武士として出世を望んでいたようです。
しかし、関ヶ原の戦い以後、平和になり、武士の仕事が減ることを考え、商人として生きる道を選び、成功を夢に海外に活躍の場を求めることになりました。
1612年朱印船で長崎から台湾を経て、シャム王国の王都アユタヤに渡り、後に津田又左右衛門筆頭の日本人傭兵隊に加わり頭角を現し、アユタヤ日本人町の頭領になります。
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山田長政と国際都市アユタヤ!!
17世紀のアユタヤは、日本の江戸やヨーロッパの大都市に引けを取らない国際都市でした。貿易によって、経済が発展し、繁栄を誇っていたのです。
シャム王国に地方から物納税として集まる特産品を求めて、世界各国より外国人商人が集まり、この貿易によって、莫大な富が生み出されました。
ちなみに、世界中の50か国もの人々が移り住み、人口は15万以上、当時鎖国中だった日本からは考えられないほど、オープンな都市だったと言えます。
しかし、このアユタヤの繁栄に目をつけたのがヨーロッパの国々であり、中でも大国スペインが支配に乗り出そうといていたのです。
そこで、戦国時代を戦い抜いた日本の侍たちは、商人だけではなく、アユタヤ王朝を守る傭兵として活躍します。その傭兵のリーダーとして戦ったのが、山田長政でした。
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山田長政とアユタヤの日本人町!!
アユタヤの日本人町は、古くは14世紀に始まったと言われ、17世紀頃には外国人たちが出身地ごとに居住区を設けていました。
タイ人よりも外国人が多く居住するコスモポリタンな町だったのです。そして、日本人も同じように集落を形成しました。これがアユタヤの日本人町です。
日本の江戸時代には、仕事を求めて多くの浪人が朱印船によってアユタヤに流れてきました。最盛期には1,500人もの日本人が居住していたと言われています。
また、侍の流れを組む日本の傭兵は、アユタヤの傭兵の中でもかなり屈強で、強力な力を共に政治的にも大きな力を持つようになり、そのリーダーとして長政が活躍したのです。
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山田長政の活躍とその後!!
当時のアユタヤ王朝のソンタム王の信頼を得て、日本人町の頭領になった山田長政は、日本人義勇兵の隊長としてチャオプラヤー川の警備などで活躍します。
そして、大きな功績を挙げた結果、ついにはオークヤー・セーナピムック(軍隊の領袖)という欽賜名を授かるまでに出世しました。
また、当時のアユタヤ国王は、直轄する軍隊が少なかったため、外国人の傭兵を徴用します。よって、力のある長政はとても貴重な存在でした。
しかし、王位継承争いに巻き込まれた長政は、対立したプラサートトーンから疎まれて左遷、最後には自分のライバルになると恐れを抱かれ、毒殺されてしまうのです。
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山田長政の死と日本人町の消滅!!
長政の死後、当時の江戸幕府の鎖国政策のタイミングと重なった結果、新しい日本人がアユタヤに移住しなかったこともあり、日本人町は衰退の一途をたどります。
最後には息子オクンも暗殺され、日本人町も焼き払われてしまいました。その後、実際には細々と存在したようですが、徐々にタイ族に同化、自然消滅していったようです。
ちなみに、当時の日本人町の跡地は、現在日本人町跡の碑が建立され、記念公園となっており、数多くの日本人旅行者が訪れる人気の観光地となっています。
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さいごに
幼少期に武士を志し、時代の流れと共にタイ(アユタヤ)に渡り、一時代を築いた山田長政は、やはり色々な意味で先見の明を持った偉大な人物です。
私もいつかタイに移住する機会があれば、山田長政のような先人を参考に、その歴史からも生きる知恵を学びたいと思います。
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