ベトナム (越南)は、世界で最も親日な国と言われています。ベトナムに行ったことのある人はきっと感じたはずです。
しかし、ベトナムの歴史は決して順風満帆ではありませんでした。ということで、今回は、ベトナムという国家の成立と歴史について、記事にしたいと思います。
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この記事の目次
ベトナムを知ろう!!
ベトナム社会主義共和国、通称ベトナム(越南)は、インドシナ半島東部に位置する人口約9,300万人の社会主義共和制国家で、首都はハノイ、通貨はドンです。
世界でも最も悲惨な戦争の一つであるベトナム戦争によって、一躍世界的に有名になりましたが、南北に細長い現在のベトナムは、歴史や文化が大きく異なります。
現在、北ベトナム(トンキン地方)、中ベトナム(アンナン地方)、南ベトナム(コーチシナ地方)の大きく3つの地域に分けることができるでしょう。
そして、この3つの地域は人種的にも異なり、それぞれが独自の文化を持っていました。これを前提にベトナムの歴史について考えていこうと思います。
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ベトナムの3つの地域とは!?
北ベトナム(トンキン地方)
ハノイを中心都市としてトンキン湾に面した地域です。中国と接しているため、古くから中国との関係が強く、秦王朝時代より中国の支配を受けました。
10世紀以降ベトナム人の独立の機運が高まり、ベトナム人の国家、大越国王朝が誕生します。また、中国の支配が長かったこともあり、漢字の文化が取り入れられました。
中部ベトナム(アンナン地方)
ベトナム中部の都市フエを中心としてチャム人が住んでいた地域です。後漢より独立、日南群でインドの影響を受けたチャンパーと称した港市国家を形成していました。
しかし、15世紀には北ベトナムの黎朝に圧迫され滅亡、最終的には北ベトナムの文化と融合します。よって、現在も文化圏としては北ベトナムと言っても良いでしょう。
南ベトナム(コーチシナ地方)
サイゴン(現在のホーチミンシティ)を中心に、隣国カンボジアと共にインドの影響を受けた扶南という東南アジア最古の港市国家を形成しました。
7世紀頃にはクメール人のカンボジア王国に征服され、その支配が長く続き、17世紀からはベトナム人の侵攻が始まります。
そして、ベトナム人の阮氏がメコン・デルタ(コーチシナ)に広南国を建国、1802年にベトナム全土を統一した阮福映の阮朝に併合されました。
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北属期のベトナム!! 1,000年に及ぶ中国王朝の支配!!
ベトナムは、中国の南部と接していることもあり、長きにわたり中国に支配されました。古くは秦の始皇帝の時代から漢の武帝の時代、唐が滅ぶまでの約1,000年以上です。
秦の始皇帝は遠征軍を派遣し、北ベトナムの一帯を支配しました。そして、中国王朝の郡県制支配を受けることになりますが、秦の滅亡と共に独立し、南越を建国します。
しかし、後漢の武帝の時代にこの南越も滅ぼされ、ベトナムは再び支配をうけました。また、多くの漢人の入植に対抗し、徴姉妹の反乱など、反中国の農民反乱が起こります。
3世紀頃になるとヨーロッパの特使が来るなど、東西交流の活発化を背景に中部ベトナムが独立、チャンパーを建国します。
魏晋南北朝時代には南朝による支配、その後の隋に続いて中国を統一した唐は、ハノイに安南都護府を置いて統治を行いました。
最終的には唐の支配力が弱体化した結果、中国南部にあった南詔が一時安南都護府を占領、こうして混乱の時代が始まることになります。
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ベトナム人独立と王朝の形成!!
10世紀中国の五代十国の争乱と共にベトナム人も独立の動きを見せます。ついにはベトナムにも安定政権、大越国の王朝、李朝が建国されました。
その後、北ベトナムに陳朝、胡朝、黎朝(後黎朝)と続きますが、元、明、清の中国統一王朝は、いずれも北ベトナムへの直接支配を狙い干渉を続けます。
1009年、李公蘊によって李朝大越国が建国、都をハノイとし、長期的な統一国家を形成、この李朝は1225年まで続き、この時代から南進が始まりました。
1225年、陳氏によって李朝は滅ぼされ、陳朝大越国が成立、中国を支配していたモンゴル人の元が数度にわたりベトナムに侵攻してきましたが、粘り強くこれを撃退します。
しかし、最終的には服属することになり、安南国と呼ばれました。そして、この度重なる支配が民族意識の高まりに繋がったと言われています。
この時代に漢字を基礎としてベトナム語表記するための民族文字、字喃(チュノム)がつくられ、史書『大越史記』の編纂も行われることになりました。
その後、1400年には胡朝に代わるも、1406年に明が陳朝の回復を名目に介入、ベトナムへ遠征軍を派遣します。結果、ベトナムはまたしても明に支配されることになりました。
しかし、中国文明の直接支配の中で、ベトナム人の独立心はさらに強まり、反明闘争が続きます。そこで、この明の支配に立ち上がったのが黎利(レ=ロイ)です。
そして、1428年ついに独立を回復して黎朝を成立させましたが、独立後も明とは友好的な関係を結び、科挙の整備など、明に倣った国内政治を行います。
15世紀後半には国力も安定し、中部ベトナムのチャンパーを滅ぼし、中部から南部にまで勢力を拡大するに至りました。
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阮朝によるベトナム統一!!
15世紀後半の黎朝は、ベトナムの歴史の中でも最も安定した時代でしたが、16世紀に入り莫氏が権力を奪ったことから、長く続く内乱の時代に突入します。
権力を奪った莫氏とその奪還をめざす黎氏が争い、一時は黎氏の権力が復活するも、17世紀には北部の鄭氏、南部の阮氏の争いが始まりました。
こうして長期に続くベトナム南北戦争が勃発、阮氏はメコン・デルタなど、カンボジア王国領にも支配を及ぼし、中部ベトナムのフエに広南国という独立政権を成立させます。
しかし、18世紀には西山阮氏が西山党の乱を起こし、独立政権を立て、西山朝による王朝が成立しました。
その後、タイの支援を受けた広南阮氏を破り、さらにハノイの黎朝の鄭氏政権支援を口実に介入してきた中国の清朝軍を破って、1789年にベトナムの統一を回復します。
1802年には広南阮氏の生き残りだった阮福暎が、フランス人宣教師ピニョーの援助と共に、西山朝を滅ぼし阮朝を建国、都をフエに置き、国号を越南国としました。
そして、清朝を宗主国としてベトナム統治を認められます。また、ベトナムという国号は、この越南に由来するものです。
1830年代には港口国、チャンパ遺臣の自治領も支配、これによって、現在の統一国家ベトナムの形がほぼ完成することになりました。
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さいごに
19世紀までのベトナムの歴史は、度重なる中国の支配や異なる三つの地域が入り組んだ戦いの歴史でした。
また、現在のベトナムもこの影響を受けたことで伝統や文化が地域によっても異なり、その名残りとしての独特の文化もベトナム旅行の醍醐味となっています。
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